Webでの表現がわからない - Web Strategy「MONOづくりの視点」から転載
MdNさんのWEB Strategyという雑誌に、MONOづくりの視点という、リレーエッセイのコーナーがあります。カイブツ木谷さんからバトンを受け取り、果敢にも4000文字を埋めました。これがちょうどWebでモノを作ることについて書いた内容なので、ここにも掲載させていただこうかと思います。快諾をいただいたMdNさんありがとうございます。
■Webで胸を張りたい
みなさん、こんにちは。眠らない木谷さんから眠り続ける馬場にバトンが渡されました。馬場です。よろしくお願いします。
最初に白状してしまいますと、Web広告制作を生業とする会社に勤めている身でありながら、広告のことやお金のこと、ましてストラテジックな何かについて書けることはあまりありません。しかし、幸いモノづくりについて何か述べよということなので、Webで何を表現すればよいのか、そもそもWebでの表現とは何なのか、なぜWebでの表現がどういうものかわからないのか、というようなことを、特に結論めいたものが出せるわけでもなく恐縮なのですが、書いてみたいと思います。
さて、Webでの表現とはどういうことなのでしょうか。ぼくはFlashしかできないので、どうしても「Webでの表現=Flashでの表現」と考えてしまいがちですが、どうも違う。何しろWebでは、ビットに変換できるものは何でも流れます。テキスト、映像、音声、そういったものがすべてWebに乗っかることが可能で、実際流通しています。そんな、あらゆる既存のメディアやジャンルをすべて取り込むことが可能なWebという場での表現って、何なのか。
本来は、それぞれの分野に、それぞれのスペシャリストが存在し、それぞれに日々新たな表現を模索している。そういう方々を前にして、「ぼく、Webクリエイターです」と胸を張って言えるような表現の質とはどういうものなのでしょうか。そんなもの、あるのでしょうか。
■Webは慌しい
Webは何でも乗っけることができて、小説を読むことも、PVを見ることもできますが、それらは、本というメディアで小説を読んだり、MTVというメディアでPVを見る感覚とはずいぶん違います。
たとえば、ぼくにとっての小説本は、それを読み終えるまでぼくの生活に寄り添う、もうひとつの世界です。電車の中や食事中、ベッドの中など、生活のちょっとしたすき間で、その物語の世界に触れては離れます。細切れの時間ではあるけれど、本とぼくの間には、1 対1 の親密で信頼できる関係が結ばれます。
しかし、同じ小説がWebで公開されていたとしても、本と同じ態度で臨むことは難しい気がします。それは、PCの持ち運びや起動がたいへんすぎて生活のすき間に入り込めないという、物としての特性もひとつの原因だとは思います。でもそれよりも問題なのは、Webには作品と並行してあまたのネタがあふれ、それらに対して非常に容易に浮気できてしまうという点です。ひとつの対象に集中できる時間は非常に短く、ちょっと長かったり難しい内容だったりすると、その世界から離れ、簡潔にまとめたり批評して俯瞰しているサイトを参照しようとする。あまつさえ、モニタの前にはキーボードとマウスがあり、メーラやチャットのクライアントが常時立ち上がり、いつでもだれかとコミュニケーションできる準備が整っています。これらの誘惑がすべてひとつのPC上にちりばめられており、そういうWeb元来の落ち着きのなさ、能動性、マルチタスク感、コミュニケーション志向が、物語と現実の素朴な行き来を阻害してしまい、作品に対してネタ以上の思い入れをもつことを困難にしてしまうのではないか、と感じます。
Webコンテンツの形態は、一度で伝え切るか、細切れにアクセスしても楽しめる構造のものが多い気がします。ぼくらがよくつくるキャンペーンサイトも、1 度のアクセスの間で、どれだけ端的にメッセージを伝えられるかが勝負です。BlogやYouTubeは、小さなボリューム単位に継続的にアクセスする形態になっています。Webの特性を考慮すると、自然とこういった形になるのでしょうか。すべてのコンテンツはコミュニケーションの道具として、フラットに配置されます。モノゴトを筋道立てて掘り下げたり、時間をかけて物語を紡いだりするには、不向きな場かもしれません。
■Webは不定形だ
たとえば、「映画での表現」といった時点で表現の領域はだいぶ限定されます。どのような新奇なプロットで最新のCGを用いたとしても、それは映画館のスクリーンに映し出せる範囲内での創造性になります。このことは、映画の表現の可能性の幅を限定してしまっているのでしょうか。
確かに、枠組みとしての映画の可能性は、映像のつくり手からは閉ざされているのでしょう。映画の途中で観客の反応によってストーリーを分岐させるというような、スクリーンの中で収まらない演出をやろうとしても、よほどの採算のメドが立たない限り、実現は非常に難しいのではないかと思われます。しかし、スクリーンにリニアな映像を流すのみで勝負、という限定を大前提として受け入れ、その枠の中でできることを何十年もみんなで探求してきたからこそ、映画が産業として成立し、内容の豊かさが保たれてきたのではないかという気がします。スクリーンの中だけでも無限の創造性が発揮できることを、ぼくらはずっと目の当たりにしているわけですし。(と言いつつ、Bacardi B-liveのような、枠組み自体を意識したシネアドはすごく魅力的ですが1 )。
映画に向かう観客の態度も固定されています。観客は、初めから自分が何をしたらよいのか理解しています。コンテンツは必ずスクリーンの中で展開されます。外音が遮断された暗い部屋で、自ら携帯の電源を切り、スクリーンに映し出されるものを受け取ろうと努力します。長年培ってきた信頼関係。観客は映画という仕組みにイチイチつまづくことなく、その中で上映される作品そのものを評価します。
枠組みがあるからこそ、つくり手は創造性を発揮する場を限定することができ、結果として質の高い表現を生み出します。また観客も、その作品を見るための仕掛けが固定されていることで、枠組みを透過して、作品自体に集中し評価することが可能になっているように思います。
翻ってWebを見渡すと、Webならではの作品を閲覧するための限定された機構というものは、まだ生まれていないように思います。枠組みとコンテンツという明確な区分けはなく、それらが渾然とした状態でユーザーに提供されている、という感があります。ユーザーは、何か作品に触れるたびに、そのコンテンツの枠組みや構造を把握するところから始めることになります。ぼくらつくり手も、そのコンテンツの枠組みを理解する過程に驚きが含まれるよう努力します。それはそれでとても楽しい作業です。見る側もそれなりの楽しさを感じることがあると思います。ただ、その楽しさの質は、映画を見終わったあとに残る感慨とは、随分違うもののように思えます(ぼくがふだんつくっているものは広告なんだから、映画と比べてもしようがないのかもしれないけど……)。それは、つくり手もユーザーも、枠組みを構築し消費することでおなかいっぱいになってしまい、映画でいえば、映画館に来たところで満足してしまっているからなのか、とも思います。
しかし、Webならではの作品というものの大枠がどうあるべきなのか判然としない以上、とにかく今はいろんな枠組みを試し、Webコンテンツを発明し続けることが重要なのかもしれません。育ち盛りで悪食なWebに、長期間にわたって通用可能な枠組みというものがそもそも成立し得るのか、それさえもよくわからないのですが。
■結局、Webはどうなのか
結局、Webならではの表現とは何なのかまるでわからないよ、というグチ話です。恐縮です。
YouTubeで発表されるような作品も、既存のメディアではまず日の目を見なかっただろう性質のものも多く、まさにWebならではの表現の場、表現内容だと思います。けれど、発表されている作品自体は、結局のところリニアな映像でしかありません。メディアとしてのWebの特性は十全に生かされているものの、単純に1 ムービーを1 作品ととらえると、その構造自体にWebとしての特徴は特にないのです。そこが、Webでの表現にロマンスを感じてやってきた人間としては不満に感じてしまうところです(とはいえ、MATTにはジワジワと感動してしまったりするのですが2 )。
最近、松本大洋原作の「鉄コン筋クリート」がアニメ映画になったので見に行きましたが、いきなりオープニングあたりで泣きそうになりました。もともとぼく自身が彼の作品のファンということもあるのですが、スタッフ全員が原作を本気で愛し、その世界を映像の中に再現することに対して、ちょっと信じられないくらいの集中力で作業しているだろうことが、画面からビシビシと伝わってて、そのことに感動したのです。こういう気合いの入った映画を見るたびに、これほどの長期間、これほどの集中力で、これほどの技術を投入し、これほどの集団作業の連携で臨める作品が、果たしてWebにもあり得るのだろうか、と考えてしまいます。
何かつくりたいと考えたときに、それを乗っける場所がWebである必然性がどのくらいあるのか、最近はますますわからなくなってきました。しかし、そんなことを言ってても本当に無意味なので、今年もとにかく何かつくっていこうと思います。本年もよろしくお願いいたします。